

長野県の南部に位置する飯田市。東に南アルプス、西に中央アルプスを望む、自然豊かなこの地で、飯田市立病院は「地域医療の中核」を担っています。救命救急センターや地域がん診療連携拠点病院など、多くの重要な役割を担うこの病院は、まさに地域住民にとって「最後の砦」ともいえる存在です。
しかしその裏側では、多くの地方病院も直面しているであろう「深刻な課題」がありました。
アナログな業務と人材不足が招いた、医療現場の疲弊と焦り
全国的な高齢者の増加によって医療・介護の需要が高まり、この需要増大に対して、医療人材の確保は困難を極めています。飯田市立病院でも医療従事者にかかる負担は年々増加していました。
「命を救うという使命感を持って看護師になったのに、患者さんとしっかり向き合う時間が取れない状況にありました」
看護部の副看護部長の原由美子氏は、当時の状況をこう振り返ります。
電子カルテは早くから導入されており、院内の部門システムも医療情報システム部が中心になり内部の意見を汲み取りながら発展させてくれていました。カルテや部門システムでも限界があり、アナログなコミュニケーションや、手書き等の非効率な作業がまだまだ多く、本来最も大切にすべき「患者さんのケア」に十分な時間を振り向けることができないこともありました。
医療情報担当専門幹の熊谷敏克氏もWebアプリを導入しても、Webアプリと閉域の院内ネットワークは分断があり、転記等の事務作業が発生してしまい「本来のデジタル化のメリットが享受できていない状態でした」と、そのもどかしさを語ります。
この状況を打破すべく、飯田市立病院が選んだのが、Salesforceの患者さんを中心としたケアの提供を実現できる「Health Cloud」でした。
現場主導の内製化とHealth Cloudが実現する「全国医療情報プラットフォーム」との連携への期待
まず着手したのは、現場のニーズに合わせたアプリの内製化です。開発を担当した木下成美氏は、なんとプログラミング未経験。それでも、Health Cloudのノーコード・ローコード開発環境を使い、現場が必要とするアプリを生み出しました。
「世の中のIT化が進む中、病院のITがあまりに進んでいないことに驚きましたが、Health Cloudの導入で見える世界が大きく変わりました。プログラミングの専門知識が全くなくてもスムーズに構築ができ、自分が作ったものが患者さんやスタッフのためになる。夢物語だと思っていた『こういうことをやってみたい』という想いを、Health Cloudの力で本当に実現できる。とてもやりがいを感じています」と、木下氏はその手応えを語ります。
そして、その改革の検討は院内の効率化だけに留まりませんでした。Health Cloudをハブとして、医療情報システム間のデータ連携を標準化するための国際規格であるHL7(Health Level Seven)FHIR(Fast Healthcare Interoperability Resources)を介して「全国医療情報プラットフォーム」と接続を検証。院内だけでなく、「地域全体の医療連携」という大きな課題の解決の検討にも乗り出したのです。
生成AIが患者情報を要約、患者情報の収集が必要な現場をサポート
これまで、患者さんの正確な医療情報を得るためには1〜2時間もの時間を要していました。患者情報の把握のために早く出勤しなければならない場合もあり、従事者の負担を増大させていました。しかし、この患者情報の要約機能によって、わずか数分以内に必要な情報を把握することが可能になります。
さらに、Salesforceの生成AIソリューション「Einstein」を活用することで、院内のあらゆる情報および「全国医療情報プラットフォーム」を含む患者さんのサマリーを生成する検証を進めています。これにより、薬歴やアレルギーなど治療に必要な情報を効率的に収集し、治療の質を劇的に向上させ、一刻を争う現場で多くの命を救うことにつながる期待があります。「全国医療情報プラットフォーム」との接続は検証段階ですが、「Einstein」の生成AI機能を用いた当院の電子カルテの患者情報のサマリーはすでに段階的に稼働開始しています。
熊谷氏は力強く語ります。「医療DXを進めるうえで、電子カルテそのものを大きく発展させることは容易ではありません。当院ではHealth Cloudを、院内外をつなげ、院内の業務を変容させる統合プラットフォーム基盤として位置づけています。『全国医療情報プラットフォーム』の稼働により、3文書6情報や介護情報が連携されるようになると、Health Cloudはその情報を閲覧し、活用できるインターフェースとして運用できるようになります。これはあくまで一例ですが、Health Cloudの活用により、従来のアナログな情報伝達や共有の課題を解決し、最終的には人材不足の解消、働きやすい環境の整備、魅力的な職場づくりに貢献するとともに、医療の質向上や患者サービスの改善、地域医療への貢献につながる好循環を生み出す可能性があります。」
さらに、Tableauによって院内のデータ分析が深化し、Slackによってスタッフ間の円滑でフラットなコミュニケーションが実現。分断されていた「データと人」がつながり、病院全体の情報管理システムが有機的に機能し始めました。
職員からの提案で導入しましたが、業務負担が大幅に軽減されることに驚いています。Health Cloudの導入をきっかけに、地域医療をITで発展させることで人材不足の課題を解決していきたいと考えています。
新宮 聖士氏院長, 飯田市立病院
数あるソリューションの中で、なぜSalesforceが飯田市立病院の変革を力強く後押しできたのでしょうか。そこには、明確な2つの価値がありました。
第一に、オープンな連携を可能にする「標準規格への準拠」です。多くのITシステムが独自仕様で院外連携を阻む中、Health Cloudは医療情報の国際標準規格「HL7 FHIR」に対応。これが、病院の壁を越えた「全国医療情報プラットフォーム」との接続を現実のものとし、地域医療全体の悲願達成への道を拓きました。
第二に、現場が主役になる「内製化の開発力」です。プログラミング未経験の職員が、現場の課題を解決するアプリを自ら迅速に創り出す。このノーコード・ローコード環境が、職員の「やってみたい」を次々と形にし、一人ひとりが「DXの当事者」となる文化を醸成。ITを「使う」だけでなく「創り出す」経験が、職員の働きがいを高める結果を生み出しています。
飯田市立病院の挑戦は、まだ始まったばかりです。しかし、その一歩は、単なる一病院のDXに留まりません。Health Cloudを介して全国の病院やクリニックが「全国医療情報プラットフォーム」でつながり、これまで医療現場を圧迫してきた膨大な事務作業を抜本的に削減することができるのです。
さらにこの挑戦は、「AIとの協働」という新たなステージへと進んでいます。SalesforceのAIエージェント「Agentforce」の検証も開始され、患者さんからの診療予約や問い合わせ対応、院内スタッフの業務などをAIエージェントが24時間体制で自律的に処理する未来を見据えています。
ITの先進的な導入によって、スタッフを定型業務から解放し、誰もが「この病院で働きたい」と思える魅力的な職場環境への第一歩を踏み出した飯田市立病院。その取り組みは、日本の医療全体の未来を照らす、力強いモデルケースとなる可能性を秘めています。
前述の原氏は、長年抱いていた想いをこう語ります。
「これだけ世の中のITが発展しているのに、なぜ病院だけが閉鎖的なのか…という歯がゆさを抱いていました。それがSalesforceの導入で視界が開けました。働き手にとっても患者さんにとっても、医療の未来がこのシステムで変わっていくと確信しています」
南アルプスの麓で始まったこの静かな改革は、日本の医療を、そして私たちの未来を、確かな希望で照らし始めています。